思いついたことをメモしたごちゃませな場所です。

 

 

: 人間以外のモノと会話出来るようになる事(動植物や自然やその他)

 

頑張ることは誰にでも出来る。肝心なのは、それが美しい事かどうかだ。(アートしているかどうか?とも言える)

 

哲学と宗教と歴史を学ぶ事で、自分や他人などとの「人との関係」を学べ、数学や物理などによって「自然と人との関係」を学べ、ダイビングによって自然を体感する事で、「本来あるべき姿」を学ぶ事が出来た。っと思ってるっす。

 

人を好きになる事は得意だけど、人に好きになってもらう事は全くもって下手クソだ。

 

昔は、「テレビばかり見てると目を悪くする」と言われたが、今は「テレビばかり見てると頭を悪くする」と言いたい!

 

日本国内の普通の世界は、ワザと混乱するように出来ていて、気付いた人から宗教の世界に入るように作られているのだろう。

 

平和を。戦って勝ち取るのか、支払って買い取るのか?

 

見えない事や関係や作用などをマネージメントするのが重要だ!

 

他人から見て、見えるものや言葉で説明出来るモノを持たず、見えず説明しずらい大切なものを持っている事。

 

情報は材料であって決して料理の完成品ではない。材料を選んで料理するのは、必ず自分自身であるべきだ。

 

生きる為、周りの環境と調和する為、周りに影響を及ぼす為、周りが生きれる為、そして最初の生きるために戻る。二週目はグレードアップしていなければならないが、一生で出来るかどうかだろう。という様な優先順位で生き方を経験していき、最後は全体の一部に過ぎない事と、自然の摂理を重んじる事が大切だ。

 

チンチル(生命の森)古代バビロニア語らしい。

 

本質や真実を感じ取れるようにスキルを磨く。

 

雨の日は過去に戻り、晴れの日は未来を見つめ、曇りの日は今を味わう。

 

自然は人の都合に合わせてくれない、人の都合に合わせてくれるのは、かろうじて人だけだ。

いつまでも、あると思うな親とブドウ(笑)

 

生きる為には、特別なことをしなくてはならないのか?普通でイイではないか。

 

生活は普通の人と逆発想で、仕事は普通の社会に適応して。

 

人生すべてはギャンブルだ。確実に起こることはたった一つ。いつかは死んでしまうこと。

 

色々なところに予兆は存在していて、その存在に気付ける事が大切だ。

ウネリに逆らわずゆったりと乗る事がサバイに生きる極意だ。

 

常識はしっかりと持つ。しかし変な常識は無視する。

 

難しい事を考えるのは好きだが、難しく考えるのは嫌いだ!

 

時間はそこにあるものではなく自分で作るものだ。

 

真実は裸で外を歩かない。必ず服を着ている。着ている服は何枚かは分からないが。

言葉も服を着ている。その服は見る人達によって違う見え方をする。

 

言葉を100%信用するのではなく、相手の行動を見るべきだ。

 

普段の生活に不安を覚えさせる世の中の作りをしていれば、色々な宗教が繁栄する事が出来るようになる。

日本ほど宗教ビジネスを上手く活用している国はないのではないか?

 

イイ世の中ではなく、悪くない世の中になって欲しい。

 

悪い事する人は、悪い事を出来るだけであって、良い事も出来るのだ。

 

大乗仏教は、何でも「大丈夫っ教」って事か!(笑)

 

折角この世に生まれてきたのだから、自然や動物と人と良い関係の場所に住む。

 

人の社会しか見ていない人は、周りを自分に合わせようとする。

人の社会も含めて自然全体を見ている人は、自分を周りに合わせようとする。

 

山や海、夕焼けや星空を見て感動するのもイイが、目の前にあるふとした日常にいつも感動していたい。

 

身近な細かい事と戦って怒るよりも、本来戦うべきモノをちゃんと見極めて、

それと全力で戦うべきだ。内容にもよるが、細かい事は笑って済ませるべき。

 

人は自分の思う通りに人を動かし金を欲しがる。そしてそれが叶うと何かしたくなってしまう。

しかし、どちらも無ければ、身近な目の前の事や物を大事に扱うようになる。

人の生きる道とは、この様に素朴で良いのではないだろうか?

 

本来、人の考える事は、様々な矛盾があり、イエスかノーでは割り切れない、割り切らない方が良い問題が沢山あって、その中間部分のおかげで発展もしてきたし失敗もしてきた(失敗も決して無駄ではない)。昨今の様々な問題に答えを出す場合、本来はすべて人が決めるべきことだが、どうしても白黒付けたがる風潮になってしまっている。本気で解決したいなら、AIに任せてしまえばイイ。ただし、それもちょっと問題だと思うので、論理的な問題はAIに、倫理的な問題は人間が処理するべきではないかと思う。 全ての観測基準は(数字や時間など)、人間の目線であって、本来の自然や物事を捉えてるわけではないことを忘れてはならない。世の中は直線的で順序だっているわけではないはず。人間の作ったものは、人間(赤ちゃん)以外全て、直線的で形式の中で作り上げられている。人間も本来この様なモノでない以上、完全に白黒付けるべきではないとは思う。本当に重要なのは情緒と適切な直感力だ。

 

プラネットテーブル

海は広大で深いものだが、人の知っている海は浅くて狭い。

 

自然を利用するだけでの生活をするのか、自然に寄り添いながら生活をするのか。

 

車で言うとオイル!料理でいうとお塩!の様な人間になりたい。テンションの塩梅が重要。

 

人には計算されてない間違いがあるからこそ人であり、そしてそれによって文化や思想が発達したこともある。

AIが人に変われないところは、間違いを計算しないで出来ない事だろう。

もしもAIが計算なしに間違いをするようなら、根本的にAIは必要ないだろう。

 

血液型は四色問題と似ている。

 

幸せとは、自分でルールを決める、そしてそのルールに従う、そしてそう出来るような周りの環境にする、

 

今は自分の為、未来は人の為になるように生きる。過去を学んで未来を目指し、未来を見ながら今を生きる。

 

生きる。生きてる。生かされている。過去は塩味未来は甘味。

 

人生のルールと社会のルールは別のモノだ。

 

幅広い情報を得て狭く行動する。何かに貧しくなければ、本当の美しさには出逢えない。

 

自分の持ち物は、歳を取れば取るほど、目に見えるものを減らして、目に見えないものを増やしていく。

 

人生は楽しむものではなく味わうものだ。

 

何かをする事ばかりに評価を与えがちだが、判断するのは難しいが、何かをしないという事もとても重要な事である。

 

自分の環境をスッキリさせることが幸せにつながる。持ち物、人間関係など。電子の配列のように、自分の近くは少数でもそこから関係が広がりを見せる形が理想。

 

現世から地獄と天国への道があるのではなくて、天国とは死後の世界、地獄とは現世の事ではないだろうか?故に前世から見れば現世は天国である。天国も地獄も見方によるものである。したがって、どの環境でもいかに幸せに暮らせるか?っをテストされてるのではないか? 仏教は既にこの事を踏まえて、いろいろな経典を書いているのかもしれない。「地獄と天国で楽しく生きる術」老人になったら書いてみたい。

 

永遠や無限とは閉じているものだろう。ちょうどメビウスの輪のような感じ。ゼロからスタートして、その輪の大きさによって容量は変わるが又ゼロに戻ってくる。人間の考えるこれらは、絶対に認識できないので、必ず有限又は数える事が可能になる。

ずっと続くという希望は考えられるが、現実的には恐らくない。天国も地獄もきっと今現在自分の中にあるものだろう。数字の概念は人の考えたものであり、続きそうだがその先を考えるのは無意味ではないだろうか? ゼロと無限の概念は人間のみ持つ実在しない論理体系であり、数字はその間に挟まれている、只の人間が整理しやすい道具に過ぎない。「世界は数字で出来ている」と言ったピタゴラスには申し訳ないが、即ち、数字もまた実在しないものだ。

 

その人の他の人への接し方、もっと重要なのは、自然やモノへの接し方、これらの事の方が、その人のしている職業や、その人の肩書きや地位よりも優先されて見られるべき事だと思う。

 

経験しないと変われない事と、経験したら戻れない事は違う。

 

人は何でもできると思うが、環境によって何でもやらせてくれるとは限らない。

 

謝罪を言えない人、謝罪を受け入れない人、どちらも問題だ。

 

言葉は便利なだけであって決して万能ではない。

 

仕組み、作用、思いやり、感謝など、目に見えないものを感じ取れる人になるべきだ。

 

ビジネスとお金は直結させ、仕事とお金は直結して考えない。

 

社会の中で生きている場合は何か長けたものを持ち、独立した中で生きている場合は、浅くて広い万能なものを持つ。

 

仕事はそれ自体を美徳として、その対価としてのお金を目的としては美しくない。

目的の為に仕事をして、その為に必要なお金を生む為の仕事では、仕事自体の品質は決して上がらないだろう。

お金の入る量は、仕事の質とは必ずしも関係なく、人間関係とその位置によって入るものだ。

 

学校で習う勉強は自分自身を磨くものである。もう1つ重要なのは、自分以外の外の部分と付き合う為の勉強であり、心理学や哲学や数学など、一般的に現実社会では必要とされていないと思われている学問たちを学ぶべきだ。

 

行き過ぎたダイビングはもう必要ない。

 

 

節度とルールと思いやりがしっかりしていれば、人間生活にお金は必要ない。

 

モノゴトは流動的で繋がりのあるものだ。写真の様な断片的に物事を見るのではなく、動画の様に前後の繋がりを見ながら物事を理解していかないと、モノゴトの本質を感じることは出来ない。部分だけで見ることも重要だが、全体としてのその部分を見ることが出来るかが、とても重要である。

 

物事の、1枚目しか見ない人、2枚目まで見れる人、3枚目まで読める人。

この3人の見ている世界は全く違う。

 

直感で良いと思い、のちに意味づけしていく

その事のヒントは、別の事をしている時に落ちてくる。

 

目に見えないもの同士、目に見えるもの同士の交換が基本なのではないか?

例えば、物々交換などや、情報には情報で返すなど。

しかし現代社会では、様々な多様性があり、一概には決め付けられない。

 

最近、考えることはあっても悩むことはあまりなかったので、この機会にめいいっぱい悩んでみよう!

日本に閉じこもっていても、海外に閉じこもっていても、色々な刺激を受けながら橋渡しをしないと。

 

海や山の仕事をしていると、大自然と正面から向き合うことになり、自分の欲望は必ずしも叶える事が出来ないと言う事を知っている。したがって、その与えられた状況の中で、自分が満足出来るように努力する事を必然的に覚えてくる。それを覚えないと、自分が天候や自然現象まで左右できる人間にならないと、満足出来ない人になってしまう。ちょっと残念に思う。

 

海の光景を優雅だと思うのは人の考え方であり、水中生物達にとってはきっと、常に死と隣り合わせの戦国時代の様ないつも通りの風景なのだと思う。

 

温度のメリハリ、環境のストレス、程よい緊張感などが重要。夏と冬など野菜や魚などこれらによって美味しくなってるだろうし、美味しいということは、頂くその時期だということ。人間も同じ様なことが言えないだろうか?

 

本当の死とは、死後その人の事を誰1人として知らない状態になった時。

 

真面目に、楽しく、ちゃんと生きて行く! という事は、かなり大変なことだろう。

 

ウィトゲンシュタインの言う、「語りえぬもについては沈黙を守らなければならない」そして、実際に語る事は出来るが、音や文字などで表現してしまうと、意味を消失してしまう事についても沈黙を守るべきだろう。

 

やりたい事をやるべき、やるべき事をやるべき、やってはいけない事はやらない、やっても良い事は是非やろう、やった方がイイこと、やらない方がイイことは、ケースバイケース。必要な事、不必要な事は、あくまでもその時の自分の考え方であり、その考え方が導く方向は必ずしも予想通りではない。したがって、どちらを選択するかのその行動は運であり、気分であり、何かの因果関係が働いた結果である。

 

人生は孤独である事を認識する。

いかに人生を一人で楽しめるか?

しかし、社会の中での自分というものをどうやって確立するか。

 

政治がしっかりしていて、国民はそこそこイイ加減が良い。

 

今の政治はコメディーだ。政治家は、ただ舞台で踊らされている役者なだけ。

 

もし売れると分かるモノがある場合、その影響についても考慮するべきだと思う。

 

人の世界では幻想を見て生き、自然の中では現実を見て生きる。

 

感謝する事と大事にする事と忘れない事。

 

平等とは、何を基準にするかで変わってくるモノ。

 

コミュニケーションの密度がイイ塩梅であることが重要。

 

無駄なことも必要であるが、あくまでも必要な事があってのことであって、なおかつ必要なこと以上に無駄なことは必要ではない。

 

初心の頃のひたむきな一生懸命さを忘れず、経験を積んでからのクオリティーも忘れないようにする。初心と経験者を足して2で割るのではなく、初心という布の上から、優しく経験という布を綺麗にかぶせる感じだ。

 

◾︎ アート作品とアートとの違い

 

アートとは、目に見えるものではなく、人が前進する、または維持する為に有効な意志や方向性などを含む、「調和の概念」みたいなモノではないかと思っている。世の中にある芸術品やアート作品と言われるものは、アートと言うモノを感じる為の媒体だと思う。政治や社会への関わり方なども含まれていると思うし、伝統や技術、驚愕や感動、恐怖や怒りなども、アートを得る為の媒体に含まれると思っている。そして、大切な事は、アート作品は必ずしも人に見せなければいけないものではなく、自分だけの中でも認識することが出来る、という点は重要である。

 

アート作品はドアの鍵のようなモノである。そのドア自体に鍵穴があるかは分からないが、鍵を使って開けたドアの先にどんなアートがあるかはその人次第である。幸せや平和などになる為には、皆それぞれアートの本質を知り、その概念を持ち実践しなければ難しいだろう。

 

散歩しているカップル、一人でブラブラしてる人、おじいちゃんおばあちゃん、家族、ちょっと怖い感じの人、などなどが、フラッと立ち寄ってアート作品などを気軽に見て行く時代になれば、きっとその国はイイ国なんじゃないかな?っと思う。決して、お金を得る為だけの手段になってはいけないのである。

 

アートはモノとモノを結ぶ、連結させる、意味を与えるなどの役割を持つ、美しく作用させる感覚だと思う。

 

◾︎ 遊ぶという感覚は、限られた生き物にしか与えられてないのではないか?

 

陸上で生きている動物達、犬、ネコなどなど、そして、イルカやアシカなどの水性の哺乳類は、人との交流をある程度している様に思われる。一部の水中生物達も、例えばハタやマンタなども、それらしき行動を実感したことがあります。しかし、これら全ては人間側から接触しており、尚且つ人間が観察した結果である。

 

年々強まる生物保護の傾向は、人類が地球で生きる為に必要な技術「共存」をもっと確立していく事になるはずです。しかし、特定の生物だけを捕獲したり保護していたりすると、人類デザイン型の不安定な環境になってしまいます。そこで忘れがちな事が、生態系の発達には、「死」や「絶滅」などが含まれているという事です。今の情報社会では、考え方や方法を共有しがちですが、必ずしもベストではない場合もあります。これからは、環境をいきなり全体像で見るのではなく、自分の身の周りから考え方や見方を広げていく方法が重要なのでは?と思っております。そういう意味では、古くからの風習、祭り、宗教などを守る事が、環境との共存に深く関係しているかもです。

 

宇宙の彼方から地球へやってきた生命体が、地球に住んでいる生物を観察した際に思うことは、何故、人間は同じ種族同士で争い人口のコントロールをしているのか?という事ではないだろうか。他の生物のコントロールは、集団的に自殺したり、多くなりすぎない様に性転換しながら出生のバランスを保ったり、などしている。人類は食物を自分達で育てる技術を持っていながら、人口バランスのコントロールを、殺戮、自殺、間接的に医療や食物を使用しての長期的な殺戮、などを使用しているが、対処的方法ばかりで、なぜ予防的な措置を取れないのだろう?

 

人という生き物は、地球に住む生物で唯一、身体に何かを纏わないと体温コントロールの出来ない生物だろう。地球で生まれた生物にしてはおかしな話だ。進化の過程で、人類が衣服を必要になった際に、他の生物達はどの様に生きていたのか非常に興味がある。もしかしたら、そもそも地球から発生した生物で無いのかもしれない。

 

他人にはすぐ分かる優しさを、知り合いにはゆっくりあとで分かる優しさを。

 

◾︎ 宗教感について

 

例えば、あそこに島があるとして、そこまで泳いで行くとする。キリスト教の場合はクロールで、イスラム教の場合は平泳ぎで、仏教の場合はバタフライで、ユダヤ教の場合は背泳ぎで!と言う決まりがあったとする。すると途中で泳ぎ方を変えてその島まで行くことが出来なくなってしまうのは、ちょっと困ってしまう。しかし、途中まで既に泳いできていて、最後のひと泳ぎ!と言うところに来たら、泳ぎ方を固定するのはアリかもしれない。

 

考える為に運動をして、運動をする為に考える。

 

人生100才時代はイイけど、体は良いとして精神的にいかがなものかと? そして仕事の現場では、ある程度の年齢で退かないと、システムに柔軟性がなくなり、非効率に繋がるのでは?

 

キレイに残さず呑んで食べるが、記憶は残して家へ帰る!

 

死にたくないと思って生きる事、しっかり生きたいと思って生きる事は、全く別の道を歩む事になる。

 

1+1=2 だけど、答えが2になる問題は無限にある。2(不必要):1(?):7(必要)

 

宗教や祈りについて議論が分かれると言うのは、それだけ考える暇があり問題がない事の現れじゃないだろうか? もしも、SOSの場合は自ずと祈りは単純なものになり、生活スタイルも単純なものになっていくと思う。

 

戦うと言うのは、必ずしも目をギラつかせて殺気を纏う事ではない。戦うと言う行為と心理的に戦うことも必要だと思う。

 

 

変えないで守っていくものと、どんどん変えていって進化させるべきものを、ちゃんと区別する。そして可能であれば、どちらも取り入れながら生きていく。どちらかに偏る生き方よりも、この選択は保険にもなる。